AIによって教育労働は不要になるのだろうか?

産業革命期における機械制大工業の出現は、製造業労働者の熟練・技能を陳腐化し、不要化した。ICT革命期におけるAIの出現は知的労働者の知能や知的スキルを陳腐化し、不要化しつつある。」(人間発達の福祉国家論より)

では、「AIによって教育労働は不要になるのだろうか?」

この問いに対して、「AIとの間に人間的なコミュニケーションが成立するのか」という問題が現われる。そしてそれはすぐに「人間の教師と人間の生徒たちの間に人間的なコミュニケーションがどのように成立しているのか」という問いに転化する。
なんせAIは決してあきらめないし、粘り強いし、怒らないし、幅広い知識を持っているし、今でも学び続けている。

人間の場合は、教える側と教わる側の人格のぶつかり合いがある。(これが大事)
AIの場合は付き合っているとすぐにわかるコトだけど、自分との対話なのだ。
人間同士だと相手との対話、つまり常に相手の人格(=人権)を前提にしての対話(これが実は深いものなのだけど)になる。
さらに、教わる側が個人ではなく集団であることによる対話は、今までの経験から特に大切だ。

私たちの教育労働にははっきりとした目的がある。それはスキルや知識を身につけるだけでなく、今まで語ってきた対話(=人間的コミュニケーション)の力を高めることだ。そして、何よりも私たちの「学び」とは、「人間的に発達すること」であって、それは「コミュニケーション的理性を発達させること」と言い切っても良い。

私たちは「人間的なコミュニケーション」を発達させているのだ。
そういう観点から私たちの労働を見ると、全く異なった労働観が現われてくる。
例えば、自然相手の労働だと、自然との「コミュニケーション的理性」を発達させることだと言っても良い。もちろんそこにスキルの習得も入る。

例えばAIを使った個別最適化(学習)を取り上げてみよう。
一人一人の学力や性格、経歴などは異なっている。
とすると、ついその一人一人に合わせた学習のプログラムを立て、そのプログラムを実行してくれるAIに任せて、一人一人に学ばせれば効率的だと考えてしまう。
コスパが良いと考えてしまう傾向は、今でも大人にも子どもたちにもある。

でも、経済協力開発機構OECD)のコンピテンシー論では、「AIやDXを相互作用的に用いる」というスキルを高めることを学びの一つとしているが、もう一つ「異質な人々からなる集団で相互に関わり合う」ということも学力として示している。
この観点からは個別最適化学習は矛盾している。
そして、何よりも子ども同士の「コミュニケーション的理性」の発達を阻害している。

何よりも個別最適化学習を受ける生徒には学ぶ主体性はあるのだろうか。
教育する主体としての教師には教える主体性はあるのだろうか。
主体性の無い教師や生徒はこの方向に容易に流れるだろう。