久しぶりにリアルの会議と学習会に参加した。
山本さんのお話を聞いて、来てよかったと心から思った。
最初に、サークル交流で語ったことを一つ。
「伝説」の竹内常一は、
『今日の学校という一つの<世界>が
子どもたちにどういうものとして経験されているか』
と問い、
『教師と生徒の「教育的出会い」というものは、
今や構造的に著しく困難なものになってしまった』
と指摘している。
その「出会い」に注目すると、
『教師が子どもたちの「支配的<他者>」として登場するか、
それとも「共感的<他者>」として登場するかのどちらかである。
絶えず自分を審問と命令の場に呼び出す「支配的<他者>」であるか、
それとも、自分の感情が生む信頼に満ちた安全感を母胎に自分に対話的な関係性をもって臨む「共感的<他者>」であるかどちらかである。
そして、圧倒的に教師は否応なく前者の「支配的<他者>」の相貌をもって子どもの前に登場しているし、せざるをえなくなっている。
だから子どもたちの教師経験は圧倒的に前者であり、それが子どものうちに沈殿していることを思うと、子どもとの「出合い」が如何に困難な事であるのか予想できる。』
と述べている。
この状況の中で苦しんでいる良心的な教師が多いことは、かっての自分のことを思い出すだけで想像できる。
『今日の日本の子どもたちにとっては、「重要な他者」=「共感的な他者」としての親や教師や友だちが、生きたコミュニケーションの相手(「共感的<他者>」としても「支配的<他者>」としてすらも登場しない)としての肉感性をもちえないところにある。いわば「のれんに腕押し」的な空虚感・失望感が子どもの存在全体をすっかり浸していて、そのことが子どもの自我形成の内面的なドラマの力学を恐ろしく希薄化させ不能化させ不毛化させているのだと。つまり、「支配的<他者>」の相貌も決してコミュニケーション的な肉感性、いいかえれば人格性をもったそれではなくて、ある遠隔的なこちらからはどうにも声の届かない高所から一方的に冷ややかに自分を監視的・観察的に眼差す視線といった無機質的な相貌のそれとなっているのである。そして、そうであることによって、ある意味でいっそう親や教師は子どもにコミュニケーション的絶望を強いる「支配的<他者>」となっているのである。』
「指導要領の法的拘束力」の経緯はそれを如実に示している。
それに対して、山本さんは「知る」「問う」「ためす」という学び・発達・成長の段階を簡潔に示された。ところが「知る」だけで満足する学生がいる。「問う」ことがめんどくさいらしい。コスパが悪いということだ。(これが蔓延している)
私は、山本さんの講座でやっと「指導要領」と出会えたような気がする。
今まで「教育の現代化」とか「新しい学力観」とか「生きる力」とか「主体的・対話的で深い学び」とか・・・いろいろ悩んできた。
でも、その裏に在った指導要領の「法的拘束力」という視点で見ると、最初に述べた「支配的<他者>」として出会わざるを得ない私たちの体験は、人格を持たない眼差しがもたらしたモノであり、それこそが私たちの苦悩の元であった。
だからこそ、今回の指導要領との新しい出会いによって新たな「問い」を持つことは、この苦悩から新しい平和の地平を拓くきっかけになると感じる。
それは『如何にしたら「知る」「問う」「試す」という学び・発達・成長のサイクルを子どもたちと共有できるか』という問いである。
それが「子どもと出会う」ということであり、森田さんが指摘した、「個別の問題をどうやって全体に開いていくか(友だちとの出会い)」ということだと思う。
そして、子どもたちが<自己>と出会えるのは、この「共感的な<他者>」と出会えた時であるということを、今までの岐阜生研での学びと実践が示している。
参加している若い先生から「他人に関心を持たない子どもたち」への出会い(友だちとの・教師との・親との)をどう構想したらいいかという「問い」が出された。この「問い」自体が、その苦しみの中から新しい世界を生み出すきっかけとなることを願っている。