午前中は寺子屋。
夕方6時を過ぎてから丸太をチェーンソーで切った。
30分ほどで汗びっしょりになった。
蚊の対策のため長袖を着ていたせいもあるが、とにかく暑いのだ。
さて、全生研の基調提案を読んでいて、次の言葉に出会った。
それは「主観的真理」。
子どもの行動をコントロールする指向性が強まり、「教育の美しいリスク」(ビースタ)を冒せなくなっている。
この「主観的真理」という言葉はビースタが発見したものらしい。
AIに聞いてみる。
ビースタ(Gert Biesta)の「主観的真理(subjective truth)」という概念は、実際には彼の議論では「subjectification(主観化)」という言葉で表現されます。これは、教育を通して個人が自分自身の主体として現れ、新たな関わり方を獲得していくプロセスを指します。
🧠 ビースタの教育目的:3つのドメイン
ビースタによれば、教育には以下の3つの目的が存在します:資格化(qualification):知識・技能・理解を獲得し、社会で「何かができる」ようになること。(スキルや知識を身につけること)
社会化(socialisation):文化や社会的規範に統合され、所属する秩序を共にすること。(社会で生きていくルールを身につけること)
主観化(subjectification):既存の「秩序」からの独立性を獲得し、「自分自身の人生の主体」として立つ自由を得ること。
主観化とは、教育によって「主体としての自由」が呼び起こされるプロセスです:存在者としての自己を自覚し、「これは私が生きる人生だ」と肯定的に受け止められるようになること。自由に関わる側面――必ずしも責任を取ることではなく、「責任を引き受けない自由」や「離脱する自由」も含まれます。
主観的真理とは?
ビースタはカントやレヴィナスに基づき、「真理」は単に客観的事実ではなく、個の人生にとって意味ある「実存的真理(existential truth)」とも捉えます:
主観的真理とは、人生において実際に「意味を持つ真理」であり、自分の生き方や選択に影響を与えるものと位置づけられます。これは決して相対主義ではなく、「その人の人生にとって真実であること」を意味します。
教育との関係性
ビースタによれば、教育とは単に「学習促進」や「スキル伝達」や「ルールを身につけること」ではなく、真理を受け取る経験を通じて開かれる主体の形成でもあります。教師は「真理を教える存在」ではなく、「真理を受け取る環境を整える存在」という役割へと転換されます。主観化の教育への応用(まとめ)
[ドメイン〕 [内容〕
資格化 知識・技能を身につけ、社会的な「成果」を得る機会
社会化 文化・社会との一体感や一員としての振る舞い(ルール)を学ぶ機会
主観化 自分自身として存在し、自由に選択できる主体性の獲得主観化は教育の中で**中断(interruptions)**を通じて起こります。既存の慣習や期待を「中断」されることで、「私はどう行動するか」「私は何を選ぶか」という問いに自ら答える力が育まれます
AIによる説明だから間違いもあると思うけど、この説明はよくわかる。
それは、教育の目的を3つにしていることだ。私たちはこの前の二つしか目的にしていないことを教えてくれる。
そして、基調はさらに次のことを示す。
教師は子どもから認められなければ「教師」になれない。・・・子どもにとっての「主観的真理」を教えられたとき、子どもは、はじめてその相手を教師として承認する。
このことは実感としてわかるし、そういうことだったのかと腹に落ちる。
「主観的真理」という言葉によって、今まで霧がかかっているようにもやもやしていたことがすっきりと晴れた感じがするのである。
さらに教育の目的には4つ目があるということも教えていただいた。
それは、虚構化(日常から離れて科学や芸術の世界を存分に楽しむこと)。
確かにこれもあるな。
『人間発達の福祉国家論』の中で「コミュニケーション的理性」を三つに分けている。①真理性基準 ②規範性基準 ③共感・誠実・真意性基準。
これを教育にあてはめると、③が「主観的真理」と重なり、イメージが膨らんでくる。
オンライン読書会で「人
間発達の福祉国家論」二宮 を読んでいて、その中でコミュニケーション的理性を三つに分けています。①真理性基準②規範性基準③共感・誠実・真意性基準です。 これを教育にあてはめると「主観的真理」と重なると感じたのです。「虚構化」も面白いです。