今回のテーマは2年。
ずっと以前、つれあいを亡くされたおばあさんから、夫が死んでから桜の花の色が分かるようになるのに二年かかったという話を聞いた。
次に、近藤正臣さんがつれあいのひろさんを亡くしてから「腹がへった」と感じるまでやはり二年かかっている。
三日ほど前に、郡上プラスを見ていたら、「いつも花咲く末武さんの花畑」と題して、小川の末武東さんのことが書いてあった。
東さんとは懇意にさせていただいているので、思わず目が止まりじっくりと読んだ。
その文の中に雷が落ちて家が全焼し、そのショックで判断ができなくなり、目も見えにくくなる状態が続いた。二年ほどたって息子が「ぼくの帽子が無くなった」と初めて語った言葉を聞いて、「二年間も帽子が無くなったことを言えなかった」子どもの気持ちに気づき、ようやく立ち直ったと書いてあった。
脳ではなく身体がレジリエンスを感じるのに二年かかるのだということを改めて実感した。脳だけではなく身体全体で感じることを「体解」という。
これは三帰依文(礼讃文)。
人身受けがたし、今すでに受く。仏法聞きがたし、今すでに聞く。
この身今生において度せずんば、さらにいずれの生にむかってかこの身を度せん。大衆もろともに至心に三宝に帰依したてまつるべし。
みずから仏に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大道を体解して無上意をおこさん。
みずから法に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、ふかく経蔵に入りて智慧海のごとくならん。
みずから僧に帰依したてまつる。まさに願わくは衆生とともに、大衆を統理して一切無碍ならん。
無上甚深微妙の法は、百千万劫にもあい遇うことかたし。われ今見聞し受持することをえたり。願わくは如来の真実義を解したてまつらん。
私たちは身体で経験するのだ。
「ご体解様です」