「山伏」恐るべし

パソコンのLINEがつながらなくなった。
困っている。

今日は午前中は薪割り(割れなくてほとんどチェーンソーで切った)
午後からは、白山文化ゼミナールで「山伏の加持祈祷と医療・製薬の関係
というテーマで添野彬裕氏の講演があった。

山伏は加持祈祷をしているだけというイメージがあるが、彼らは西洋医学まで学び、治療はおろか製薬や寺子屋の師匠・地域の生活指導や喧嘩の仲裁までもやっていた。

そもそも山伏になるためには「顕宗・密宗・俱舎・修験・能説・声明・和歌・武勇・能書・画図・囲碁」などをマスターし、厳しい山岳修行によって得られた験力を生かして、地域の人々の為に医療など心身の治療にあたっていた。
そして本山である聖護院の認可のために「」の基本的な教養が大前提であった。
(理論と実践の両方を兼ねていた)

ところが、明治元年(慶応四年)の太政官神仏分離令で最も打撃を受ける。
それは、山伏が僧侶とも神官とも言えない、半俗・半僧の境界があいまいな存在だったからだ。
だから山伏の修験寺院はほとんどが廃寺になっている。

そう思うと、長瀧でも、僧侶と神官の間に山伏が存在している。
山伏の坊もあった。
彼らは神仏習合の仏教と神道を結ぶ中間者としての重要な役割を担ってきたのだ。
だから、新たなる神仏習合の為には新たなる「山伏」が必要であると思う

彼らは修験道の先達のはたらきと陰陽道の知識も彼らは備えていた。
現代で言えば、体験ツアーと科学的で歴史的な知識を兼ね備えた人。
(こういう人たちは存在しているから山伏が滅びたわけではない)

様々なコトを考えさせられたゼミナールだった。