理解の過程とは?

何を情報として選ぶかは、実は「意味」の地平からの選択であり、いわば意味を素材にして情報が成立するのである。そして、理解の過程とは、伝えられた情報の意味をいかに解釈するかということに他ならない。「新 基礎情報学」西垣通

情報が意味を伝えるのではなく、意味は人間の心や身体の中に発生するもの。
そう考える理解できることがたくさん出てくる。

例えば、昔アルファ碁が世界最強の棋士に勝ったとき、人間はアルファ碁の打つ手の「意味」を考えた。アルファ碁は確率的に打つ手を決めているだけで意味は考えていない。
その時、AIと人間との違いはこの「意味」を考えるところにあると感じた。

もう一つ、「ドラゴン桜」を読んでいると、単に学習内容を伝達しているのではない。受験生の「心と身体」の中に彼ら自身が意味を生み出している。

私自身、いろいろな話を聞くときにそのまま思想やことばを受け取っているのではない。だから「言語をつうじての情報伝達はありえない」ということは納得できる。「厳密には、話し手から聞き手への思想の伝達はなにもない。聞き手は、自分の認知領域に、相互作用をつうじて不確かさ縮小しながら情報をつくり出すのである。」
このように書きながら情報を作り出すと同時に自分のモデルに合わせて「複雑な情報」を単純化しているのだ。

幼児はピアジェが述べたように、みずからの認知世界を主観的に構成していっている。孫を見ていればよくわかる。

生命情報は、生命体内部で創出され、意味作用を起こし、意味構造を形成する

これは人間だけではない。
「ゴキブリも外界からの餌の匂いなどの刺激をうけ、それをみずからのやりかたで自己準拠的に解釈して捕食や逃走などの行動を起こす。それが意味作用であり、その際には同時にゴキブリの身体内部の神経などで意味構造の変化が起きているのだ。」

とすると次の問題が出てくる。
意味が個人の内部で発生しているなら、アソシエートすることはどのようになされるのだろうか?