かけがえのない「みずから」を生きている

「たった一つの生(いのち)を一人立ちさせる」のが高村光太郎の願いだった。

「たった一つの生」=「みずから」=「みずからの来歴(体験)」。
しかし、そもそも関係性の中にあるその「みずから」を一人立ちさせることができるのだろうか?
何から一人立ちさせるのだろうか?
高村自身の揺れの中でこの試みは揺れる。

それは現在の私たちの「みずから」の危機とつながる。
「~することになりました」という意識=無責任へと流してしまう危険性もある。
さもそうすることが「おのずから」であったかのように。

そもそも「おのずから」の働きを「みずから」は担いきれない。
つまり、責任をとりえない。

でも、そういう「おのずから」は「みずから」をうながす働きとして感受されている。
ここでは「みずから」は感受する主体である。
その意味で私たちはかけがえのない「みずから」を生きている。

「九条があったから日本は平和だった」のではなく「平和をつくるためには九条が必要なのだ」と「みずから」の方へ転換することが大事なのだ。

さっきズッキーニを採りながらふと感じた。
作物は「おのずから」育つ。でもそこに「みずから」のはたらきがある。
百姓はそれを常に感じながら働いている。