プチ法話会「あわい」

「あわい」の話

「自ら」という字は「みずから」と「おのずから」と二通りの読み方がある。
これは二つを分けるのではなく、その「あわい」の中にこそ意味があるという話。
「あきらめる」という言葉にも「諦める」と「明らめる」の二つがある。
「自力」と「他力」も同じ。
これらを対立させるのではなく融合させる中に仏教の論理があるのではないか。
その「あわい」の大きさがだんだん大きくなるのが自然(じねん)だと感じる。

御仏飯もお花も線香も灯明も「みずから」仏に奉げるだけではなく、「おのずから」わたしにはたらきかけている。
お念仏も「みずから」称えるだけでなく、「おのずから」出てくる。
罪悪深重の凡夫の自覚と仏の慈悲と智慧の救いの「あわい」。

すべてが「おのずから」ではない。小さな「みずから」の人生の意味を振り返る。
「さようなら」は「左様なら」。これは「Good by」や「再見」や「アウフベーダーゼーエン」とは違う意味を持つ。
古文書を読んでいると「左のよう」にという言葉がよく出てくる。「そうであったなら」ということは、今までのことを受け止め、それで自分自身のことを決めるようなイメージだ。

今回は日本語の話で終わった。

「恩愛はなはだ断ちがたく 生死はなはだ尽きがたし」
まったくその通りだと感じる。