「この雪が金だったら」と思ってしまう心
「雪をこっちからそっちへ運んだだけ」と空しくなる心
その心=意識を考えてみたい。
「新自由主義によって地域コミュニティが衰退し、社会関係資本が減少した」
と言われて具体的にイメージができるだろうか?
先ほどの心は誰でも持つ当たり前の心
でも、なぜそう思うようになったんだろうか?
子どものころは雪が宝の山ように感じた
雪の山で隠れ家を造り、城を造り、トンネルで迷路を作った
それがいつの間にやら迷惑なものになっている
それはなぜだろうか
確かにこの大雪は迷惑なものだ
でも、最初のような思いとは結び付かない
雪をいつの間にか商品化している心
新自由主義の市場化というのは、すべてのモノの商品化しようとする。
だから私たちの富である「コモン=社会関係資本」を商品やお金に変えようとする。
そして生産性を上げることが最大の課題になる。
すると、私たちの意識は知らず知らずのうちにお金を富と思うようになってしまう。
生産性を上げない人は無価値となってしまう。
そしてこの意識が私たちの行動や思想を縛ってしまう。
バイアス(思い込み)は無意識のうちに私たちの行動を縛ってしまう。
いや意識や思想をも規定してしまう。
仏教ではこれを煩悩とみる
執着であり苦の根源である
ただ、仏教はそれは私たちの内側にあるものと考える
ここはまだ深く考えなければ
この状況を顧みるには常に批判的な吟味が必要だと思う。
それは次の世代の者たちの視点で検討すること。
生きるために切り開く精神の弾力をもらいながら。
地域コミュニティ(アソシエーション)を再編成しながら。
いや地域コミュニティこそが私たちの富(コモン)だったのだ。
【雪下ろしの経済学】