「モラルハラスメント」と「ダブルバインド」

仏法は、哲学や精神科学と比べて遅れているのだろうか。
そういう問いをもって、哲学や精神科学に挑んだ人が清沢満之
清沢とベイトソンに共通する所を感じる。
 
それは、それまでの学説や教えをそのまま受け継ぐのではなく、
自らの経験と自らの思考をもって新しい世界を指示することだった。
そのことでは、祖師たちも同じであり、その道をたどるものの往くべき道である。
 
清沢がよく語った言葉の中に、自家撞着という言葉がある。
自己矛盾していることが私たちの前によく現れてくる。
それを清沢は自家撞着といい、それを乗り越えることを生成(進化)と呼んだ。
 
ベイトソンはこの状況を「ダブルバインド」と呼んだ。
ダブルバインドは、清沢のいう自家撞着とよく似ている。
ダブルバインドに縛られた人に分裂症的症候が現われるということを、彼は仮説として提起した。
これは現在のモラルハラスメントへと発展していく概念である。
 
彼は家族の中にダブルバインドが生じることを事例で示している。
では、ダブルバインドとは何か。
 
1、人間のコミュニケーションには様々なモードがある。
  ごっこモード、まじめモード、譬喩モード、神聖モード
  これは犬にもあって、本気じゃないモードで噛む。
2、このモードを識別するプロセスが自我(のはたらき)である。
  ところが、このモードを識別するはたらき(自我)が弱い人たちがいる。
  それがダブルバインドにとらわれた人たち。
3、ベイトソンの例で、禅の公案が使われている。(公案は師匠と弟子の間のコミュニケーション)
  「この棒が現実にここにあるというなら、これでお前を打つ。
  この棒が実在しないというのなら、これでお前を打つ。
  何も言わなければ、これでお前を打つ。」
  分裂症の人は絶えずこの状況に身を置いているようなものであり、
  しかも、分裂症の人は「悟り」とは逆の「混乱」の方へ導かれる。
4、それは、相手から届くメッセージが、高次のレベルと低次のレベルにおいて矛盾しているからだ。
  清沢は例えば自他相害の苦しみと言っている(清沢はレベルの違いを考慮していない)。
  それは、自分の利害と相手の利害が矛盾しているからだ。
  しかし、モラルハラスメントはそれさえも利用する。
5、ダブルバインドの例で、親が子どもに対する矛盾した対応が取り上げられている。
  言っていることとやっているのことが矛盾しているのに、さらにそれを正当化しようとする。
  
  しかし、ダブルバインドの状況は現代ではあまりにも無数にありすぎて、単純には述べられないが、
  ダブルバインドに縛られているととらえれば分かり易い。
 
ここまで書いてきて、ダブルバインドだけでも説明が難しいことに気がつく。
簡単に言えば、コミュニケーションのトラブルなので、そこには加害者と被害者が存在する。
加害者は、自己愛的な人で、誰かから奪うことにのみエネルギーを集中する。
だから、そういう人であることを見抜くことが大事になってくる。
しかし、親がそういう人であった場合、子どもにはそれが困難である。
子どもは同じような人になっていく。
生きずらい世の中である。