学習を持った計画と体解

以前、私が「知恵とは回り道をすること」と書いたことに反対しているように感じる。
そこが面白くて印象に残ったのだが、この葛藤をどう統合していったらいいのだろうか。
 
この葛藤について、以前と異なっている所がある。
以前だったら、こういう自家撞着が見つかったら、それを何とか解決しようと考えていた。
解決はすっきりとすることだった。
また、そういう葛藤から逃れるために矛盾することに近寄ろうとしなかったこともある。
今は葛藤そのものや、考えている行為そのものが楽しい。
 
もう一つ、神話というのは方便なのだ。
したがって、その神話が正しいかどうかではなく、どういう現象・状態を現しているのか
ということがとても面白い。
だから、自家撞着(ダブルバインド)していることを見つけたら、
どちらが正しいのかということを探るのではなく、それを統合しようとする。
 
さて、エデンの園の神話は、目的意識から知恵が出てきて、さらに計画が出てきた。
それは、すべてが明らかになったかのように、つまり、すべてが意識の上に現れるかのように
考えるという過ちを犯す。
計画の対象は生のシステムであり、それは全てを明らかにしようとしてもできないモノなのだ。
 
私の神話は、目的意識から知恵が出てきたという所までは同じ。
でも、その知恵は、いったいどこから出てきたものだろうか。
この世界(生のシステム)のどこから箱とリンゴを得るということを結びつけたのだろうか。
そこには意識の上に登らないところがあり、それを少しでも明らかにしようという意味を持っている。
 
私の考えた統合は、
計画を立てたとしても、その計画が全てであって、計画の下に全てがあると考えるのは大きな間違いだ
ということだ。
とすれば、計画を立てたとしても、常に現象からのフィードバックを行い、計画の方を修正していくならば、
それは学習を持った計画だということになる。
 
学習の習は、応用することや、ましては学んだことを現実に当てはめることではない。
体験の中に学んだことを見つけることなのだ。
それは、生のフィードバックなのだ。