『暗黙知の次元』について

ウクライナ侵攻に心をざわつかせながら、3回目のワクチンを打った。

ざわつくのは、いろいろな意見が飛び交うからだ。
そして何が起きるのかわからない不安からだ。
プーチンの動向と影響に依存している世界は嫌だ。
その声を上げるしかない。

ここのところ取り組んでいた『暗黙知の次元』について関心が薄れてしまった。
でも、まとめておくことだけはしておこう。

『そこで示されたことは、暗黙知が棲み込むことによって理解を達成し、全ての知識がそういった理解の行為によって構成され、あるいはそれにねざしている、ということであった。』

『我々の身体は、我々が外界を知性的にあるいは実践的に知ること全てのための、究極の道具である。』

(1)「暗黙知」とは何か?
『人間が知識を発見し、また発見した知識を真実であると認めるのは、全て経験をこのように能動的に形成、あるいは統合することによって可能となる。この能動的形成、あるいは統合こそが、知識の成立にとって欠くことのできぬ偉大な暗黙的な力である。』

 「暗黙知」と「形式知」に分けることはできない。
 私たちの知るという行為そのものが「暗黙知」によっているのだから。

(2)でも、暗黙知は常に言葉で表現されなければならないが、
 それが伝わるには互いの暗黙知の存在を自覚されなければならない。

(3)暗黙知があるということがわかると世界はどう変わるのか。
 ①すべてが明示的に現わされるということが間違いだとわかる。
 ②知識というものが独自にあるのではない。
  例えば科学がどこかにあるのではない。
  それぞれの人の個人的な暗黙知の中で創発される。
 ③だから知識の伝達はやはり相手の発見を待つしかない。
  私たちは初めて発見した人と同じように発見するしかない。
 ④そうすると科学者のコミュニティが問題となる。
  暗黙知が個人的なものだとすると、そこに集団の働きはどう表れるのか。
  この環境そのものがまさに暗黙知なのだ。

その知を実践する場が必要なのだ。
実践する中で自分自身のスキルとできる。
 考えるスキル、読むスキル、見るスキル、書くスキル、まとめるスキル、・・・
 暗黙知はスキルに落とし込むことができる。

暗黙知はある意味無意識の領域
 言葉にはできなかった体験が新たに意味づけられると「  」。