昨日は一日かけて台風14号の対策をした。トマトのビニールハウスを取り外した。
今までミニトマトを食べさせてもらったことを感謝しながら。
二か月ぶりのオンライン「わくわく図書館」
三木清を紹介した。
なぜ三木清を読もうと思ったのか?
パソコンがだめでネットと繋がらなかったときに読んだのが昔の本。
50年前の本を取り出して読み始めた。「パスカルにおける人間の研究」
これがとてもよくわかる。
なぜわかるのだろうか。
彼の弁証法がわかるようになったからだ。
では彼の弁証法とは何か。
今度は「哲学入門」を読んでみた。
科学は現実を対象的に考察する。
しかるに、現実が足下から揺らぎ出すのを覚えるとき、基底の危機というものから哲学は生まれてくる。哲学は現実について考えるのではなく、現実の中から考えるのである。
現実ってなんだ?
現実は我々がそこにおいてある場所であり、我々自身、現実の中のひとつの現実に他ならない。
基底の危機って?
必然だと思っているものの必然性が揺り動かされ、一つの可能性に過ぎなくなってくる。最も必然的と思われているものが単に可能的なものではないかと疑われてくるところに、必然性の可能性へのこの転換のうちに、哲学的意識は現れるのである。
自己の前提であるものを自ら意識し反省してゆくことが・・・ひとつの現実として現実の中にある人間が現実の中から現実を徹底的に自覚してゆく過程が哲学である。
私の前提は数学と仏教だけど、いつも揺り動かされている。
哲学の以前、我々は常識において、また科学において、現実を知っている。しかしながら、哲学は常識の単なる延長でもなければ、科学の単なる拡張でもない。哲学的探求は知っていると共に知っていないところから始まるということは、もと単に、知ってい知っていないのは事物の部分であって、まだ知っていない部分について知り、その知識をすでに知っている部分の知識に附け加えることで問題がなくなるというような関係にあるのでなく、持っている知識が矛盾に陥ることによって否定され、全く知っていないといわれるような関係にあるのである。
その通りだな。知識を付け足すことで解決されるような問題は問題ではない。
現実の中で、常識が常識としては行詰り、科学も科学としては行詰るところから哲学は始まる。哲学は常識とも科学とも立場を異にし、それらが一旦否定に会うのでなければ哲学は出てこない。ソクラテスの活動が模範的に示している如く、そこには知の無知への転換がなければならぬ。無知と知との中間といわれる哲学の道は直線的でなくて否定の断絶に媒介されたものであり、知の無知への転換を経た知への道である。それ故に哲学は懐疑から発足するのがつねである。しかしながら哲学は常識や科学を否定するに止まるのではない、それらとただ単に対立する限り哲学は抽象的である。それが常識や科学を否定することは却ってそれらに媒介されることであり、それらを新たに自己のうちに生かすことによって、哲学は真に現実的になり得るのである。
「知の無知への転換」魅力的だ。
三木にとっては、哲学=自分に置き換えることができる。
では具体的にはどうするのか?