身体技法における「暗黙知」のとらえ方

1、暗黙知を語ろうとすることの困難さ

はるか昔、授業でこんな場面があった。

 あるとき,説明をするように指名された生徒が,黒板の前に立ちながら突然,「僕は説明が下手なんだ。」と話し始めた。
「頭の中ではわかっているんだけれど,説明しだすとみんなにうまく説明できないんだ。それで,いつも先生から付け足されるんだ。」
 最初,何を言おうとしているのかわからなかったが,彼が言いたかったのは今まで説明で自分が傷ついてきたということだったのだ。
 この発言はクラスの生徒たちに大きな影響を与えた。数学ができると思っていた原君がこんな悩みを持っていてそれを突然言い出したのだから。
 「今の話わかった?」と聞くと、「わかる」という。
 説明をしたけどもうまくできずに,誰かに補足してもらって傷ついた経験は誰でも持っている。
 「原君からこんな告白を聞くとは思っていなかった。説明することも傷つくことがあるよね。だから,それを学べたということはすごいことだと思う。原君もよく言ったと思う。そういう説明だということをこれから大事にしていこうよ。」
 うまくいえなかったが,「友だちの発見」が確実にあったと思う。

今思えば違った面から迫ることができたと思う。
原君がなぜうまく説明できないのかわかる? 実はみんなそうなんだ。例えば初めて自転車に乗れた人が「どうして乗れるようになったのか説明して?」と言われても困ってしまうだろう。言葉で説明できる場合と説明することが難しい場合があるんだ。後者を「暗黙知」という。

2、スポーツも同じ

例えばスポーツでの身体技法は言葉にするのが難しい。でもそれを語る意味がある。
例を出すよ。
オイゲン・ヘリゲルの有名な本「弓と禅」における「それ」Es。

オイゲン・ヘリゲル「弓と禅」における修行】魚住先生は放送大学の教授


3.私の「純粋経験」の体験

私の例で悪いけど、こんな体験もあった。
体験というのは言葉で説明するには難しいものだ。
二つの私


4、指導者と学習者の関係

包括的な存在の統一性を示す指導者学習者の関係は、緊密な関わり合いであり、そうした関係性があって可能となり、ダイナミックな「知」の生成が観察される。

 「武士の家計簿」のおばば様の例【エウレカ体験は暗黙知

 上の例の「ヘリゲルと阿波師範の関係」
 『無心の離れができたとき、師匠は丁寧にお辞儀をしてそれに敬意を表した』


5、自己修正するコミュニケーション・システム

私たちの技の習得を「自己修正するコミュニケーション・システム」ととらえ、そのシステムそのものを再構築する可能性がどう開かれるのか考察する。

身体技法を語る上で「暗黙の知」の働きは何か。
言葉にできない知をあえて言葉にする。→わざ言語(比喩)で無意識を働かせる
そこには「場と場の間に新しい関係を創り出す働き」がある。

 「ちえ」の構造
 「ブラックボックスから関数へ」
 「ベイトソンの学習理論」
 「言葉を超えた領域」

原君への答えは
「これくらい難しいことを何とか語ろうとするところに深い意味があるんだ。
自分が「知った過程」を説明することは、君だけの体験を他の人に伝えることとだ。
でも、同じ体験をこの場でこうやってみんながしているからうまく言えなくてもきっと伝わるよ。」


暗黙の知を再び語ることの意義 --身体技法の伝承場面を手がかりに--
を自分流に編集しなおしてみた。