「ちえ」の構造

38年前に読んだ『「ちえ」の構造』という中山正和氏の本がある。
ふと思い出して取り出してみた。
開いてみると、紙がきいばんでいる。
 
この中に、「仏教の智慧」と「西洋の全知全能の」との違いが書いてある。
当時、なるほどと思って読み、それ以後、考えてもしょうがないことは考えないというトレーニングをしてきた。
そうすれば、自ずから智慧が出てくるというのである。
その通りになったのかどうかはわからないが、無意識のはたらきに目を向けさせてくれた。
 
思い出したのは、安冨氏の「魂+インターフェース」のモデルと、中山氏の「HBCモデル」が、とてもよく似ていることに気がついたからだ。
インターフェイスというのは魂と外界の仲立ちするという意味で、両方合わせて私たちの人格のモデルとなる。
そして、学習とは、インターフェースを発達させ、世界に対する見方や取り扱い方を変えることである。
図にするとこのようになる。
                       魂  
                     ↑(魂の声)↓
   外界からのメッセージ → インターフェース → 内面からのメッセージ
                 (変換装置)
 
HBCモデルは、人間の脳と同じようなはたらきをするコンピュータを図式化したもの。
それは、「いのち」の上に学習を載せたもので、インターフェースと同様に外界の刺激に対して行動を出力するブラックボックス
   情報 →  計算         → 計画・実行
          コトバ記憶           (こちらが分析脳)
          イメージ記憶
           学習(ルール・好き嫌い)
   刺激  → いのち        → 行動   (直観脳)
 
だから、魂=いのちと考えてもよい。
 
西洋的な全知全能の知では、計画を立てるときに、あらゆる問題をあらかじめ予想し、細部まで解決方法をしっかりと立てる。
これは、知識をどんどん増やして、ち密に分析する方法である。
それに対して、両モデルでは、無意識のはたらきである智慧を出すという仏法の方法を重視している。
 
そもそも、綿密な計画を立てることは不可能である。
中山氏は、全知全能の神でなければできないと言い、
安冨氏は、計算量爆発で原理的に(神であっても)不可能としている。
だから、ある程度の目標を設定して、実行しているときに生じるトラブルを問題として、智慧を出して解決するという方法が最も合理的であるという。
両者のモデルがなぜ似ているのかというと、どちらもウィナーのサイバネテックスからこのモデルを作っているから。
 
中山氏は、このモデルを使って、智慧を出すということを、禅を例にとりながら説明している。
この場合の智慧とは無意識の直観のことだ。
でも、その直観のはたらきは言葉にすることができない。
だから、禅では言葉を使わないで直観が働くように、修行をする。
その修行の一つが公案
トラブルを問題=公案として解いていくことが修行となる。
 
ただ、どのように解くのかということが大事で、それは「いのち」に沿った解き方である。
もともと、生命には進化の過程で、いのちを生かすという大命題を追求してきた。
その大命題は、他の生き物は自然に行っているが、言葉を持った人間だけが自然にはなしえなくなっている。
それを自然に(いのちから)行えるようにするのが智慧を出すということだという。
これが他力にあたるというのが安冨氏の考え。
 
そして、その最も大事なトレーニングが、悩んでもしょうがないことは悩まないというトレーニング。
これは、念仏では、疑いがなくなることをいう。
信心は、不審が次から次へと浮かんできても、やがて不審がなくなることを目指す。
そう考えると、念仏を莫妄想(まくもうぞう)のトレーニングととらえることもできる。
ここで、無分別智と智慧の念仏が合体した。
禅も念仏も無意識のはたらきを最大限に生かす。
 
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