仏教も教育も社会も、「学びに開かれたもの」でなければならないとすれば、
その「学び」とは何かをつかむ必要がある。
学習とは何かを、ベイトソンは40年以上前に自身の学びをとことん見つめ、ある学習理論を提示した。
それは、個人であっても、動物であっても、クラスであっても、組織であっても成り立つ学習であり、
それぞれの内部にフィードバック・システムと発達・進化の段階を持っている学習であった。
《ゼロ学習》 刺激→クラス→反応
において、刺激と反応が一対一対応で、条件反射のような反応。
ここには学習はないから、ゼロ学習。フィードバックがない。
条件反射や機械の反応がこれ。
《学習Ⅰ》 刺激(目的・取り組み)→クラス→反応(行動・成果)
この時、クラスの中でメンバーの選ばれ方や取り組み方が変わっていくときに
起こる学習プロセス。
起こる学習プロセス。
具体的には、ルール(慣れ・反復・報酬・報復)などによって、
クラスにおける刺激と反応の関係が確立していくプロセス(ルールが定着)。
《学習Ⅱ》 刺激(学習)→クラス→反応(より高次な効果を求める)
この時、クラスには、ルールの変更や目的・手段をも修正させる動きが生じる。
つまり、クラスそのものがその役割を変えていく。これを成長という。
学習することを学習していくプロセス。
《学習Ⅲ》 刺激(情報・コンテキスト)→クラス→創発(クラスのメンバー間の相互関係や考え方が変わる)
それまでのコンテキストから脱却し、別のコンテキストを選択できるようになる。
学習する集団のメンバーの関係に、外部から異質な導入作用が入り込んできて、
それが、新たなシステム上の創発を生み出したり、クラスとメンバーの相互関係
のパターン自体が要因となって新たな変換を起こしていくときの学習。
のパターン自体が要因となって新たな変換を起こしていくときの学習。
宗教的回心、神秘的な直観、神の啓示などが起こるときの学習プロセス。
クラスを例にとったが、これは個人の学習においても成り立つ。
担任しているクラス、学校、会社、組織の学習状態がどの段階にあるのか考えてみるのも面白いと思う。
そして、何よりも自分自身の学習がどの段階なのかと。
学校の現状が、学習Ⅰでとどまっていることが一番問題なのかもしれない。
いや、学習Ⅰどころかゼロ学習かもしれない。
このクラスを「智慧の構造」のいのちやインターフェース(魂)に置き換えると、
フィードバック・システムのイメージが浮かぶのではないだろうか。
ちなみに、パワハラは、刺激=相手であり、反応=応答で、フィードバックが全くなされない状態をいう。
ゼロ学習や良くて学習Ⅰである。