「純粋経験」

岐生研の会議で瑞穂市へ行ってきた。

 
いつも楽しい。
特に、会議ではない合間に話す会話と対話が面白いのだ。
 
今回は、足立先生の「西田幾多郎が教育に与えた影響」が最初の論文だという話から、西田幾多郎の「善の研究」の話になった。
 
以前から「純粋経験」のイメージがつかめなかった。
足立先生が、
「実は単純で、西田はそれしか考えていないんですよ。
純粋経験とは判断などで認識された経験のその前の経験のことです。」
と言われたとたん、なんだそうだったのかと感じてしまった。
これも純粋経験なのだ。
 
この言葉は定義として知っていたけど、今までは腹に落ちなかった。
でも、今回はすとんと落ちた。
それがなぜなのかが面白い。
 
「「私が」経験したのもの」ととらえるとわからなくなる。
「経験そのものが私に働く」ととらえると突然わかる。
 
実はここまでには、かなりの経験が積み重なっているのだけど、
その経験そのものが純粋経験ということだ。
 
「私がこの定理を応用する」
のではなく
「この定理はすでに応用という作用をなしている」
のだ。
 
余計わからなくなったかもしれない。