<あいだ>を開く

「あれ」と「これ」のあいだには何があるのか。

レンマの論理では二元論をどう乗り超えるかというと、「あれ」と「これ」の<あいだ>を探り、この二つをつなげることで乗り超えようとする。
私はこの<あいだ>をずっと探してきたと思う。

例えば、数学の命題は発見においても証明においても、<あいだ>によってつながっている。

この左辺と右辺をつなぐ<あいだ>は何か?
真ん中に入っている式が<あいだ>。そう、証明は<あいだ>なのだ。

人と人の<あいだ>もこのように様々なモノゴトがつないでいるのだろう。

私たちはモノを見る時に対比させる。
対比させることによってモノゴトがはっきりしたり、浮かび上がってくるからだ。
でも、その対比が対立になり、矛盾となると「あれかこれか」の二元論の論理となる。

例えば、「生」と「死」を対比し、それを対立したものととらえると、その<あいだ>にあるものには目がいかなくなり、区別をし、違いしか見えなくなる。つまり矛盾となる。でも、生と死のあいだには無限のコトがある。
そもそも生と死は分けられない。別のコトではない。

西田幾多郎はそれを「絶対矛盾的自己同一」という言葉で表現した。
異なるものが異なるままで一つであること
分かれないままであることが本当ではないか
生きることは悲哀である
死は生ではないか
死んだら終わりなんだろうか
永遠に死すべく生まれる
それは「多即一」である
真の自己=「人格的生命」=死しても生き続けるいのち

西田の哲学は「いのちの哲学」なのだ。