純粋経験とレンマの論理

100分de名著ではちょうど「純粋経験」をやっていた。

 西田の「善の研究」が分かりにくいのは、直観を言葉=論理で表そうとしているからだ。そもそも言葉にならない前の経験を言葉にしようとするのは困難である。

 でも、私たちはその言葉にならない「純粋経験=二つに分かれる前の世界」を何とか言葉で表現しようとする。それは芸術であったり、文学であったりする。

 ここで逆に考えてみると、言葉にできるということは論理やレトリックを使っているということだ。そしてその論理とは近代科学では二元論であり形式論理だ。

 「〈あいだ〉をひらく」には、二元論と形式論理を使って「純粋経験」が展開する哲学を表現しようとするのは無理で、レンマの論理でないと論理的には表現できないと書いてある。

 禅の経験は言葉にできない。言葉にした時にすでに二元論を使っている。でも、龍樹はそれを言葉で表現しようとした。それが出来たのは,二元論や形式論理とは違う論理=レンマの論理を使っていたからだというのが山内得立の発見。彼は西田の弟子であるから、西田の考えを根底から組み立て直そうとした。

 レンマの論理を簡単に表現した人は東井義雄。彼は『「あれかこれか」ではなく、「あれでもない、これでもない。」そのくせ「あれでもある、これでもある。」』(村を育てる学力より)と表現している。これはわかりやすい。あれかこれかは二元論。そして形式論理はそのどちらかであることしか許さない。ヘーゲルはその窮屈さを弁証法を用いて切り開いた。龍樹の論理(=レンマの論理)はまさに、「あれでもない、これでもない。」そのくせ「あれでもある、これでもある。」。東井はこの論理を「生活の論理」と呼んでいる。純粋経験とはまさに生活の体験なのだ。

 TVでは、説明していると体験したことが小さくなるのは、純粋経験=二つに分かれる前の世界だから、それを「分別の働きを持つ」言葉を使うのは困難だからと説明していた。

 でも、西田がしたように私たちも言葉を使ってこの純粋経験(私たちの経験)を何とか表現しようとしている。