「言語的自己」と「身体的自己」

今日は特別寒い。-8℃。

「ネットとリアルのあいだ」に二種類の自己があると書いてある。
これがラカンの三界ともつながるのではないかと感じる。

私(自己)という存在は少なくとも二種類に大別できる。
「言語的自己」と「身体的自己」
〇「言語的自己」とは意識的な存在で、いつどこで生まれた、職業、経歴、趣味といった社会的プロフィールで記述される。と同時にそれは理性と結びついており、合理的な推論を行うことができる。人格と呼ぶ。
〇「身体的自己」とは半ば無意識的な存在。自分がどういう身体状況にあり、何を知覚し、どういう気分であるかなどの体験についての直感的印象のまとまりで、感情(情動)の源泉をなし、身体技能とも関連している。

私という存在はこの二つが緊密に統合された複合体で、そこにだけ私だけの「リアル」が生まれる。言語的自己が身体的自己に影響を与える場合もあり、身体を持った人間が生きていくために、自然的・社会的な環境から刺激を受け、環境に働きかける過程で、「」があらわれる。その心の省察をつうじて「私(自己)」が出現する。
情報化社会では「言語的自己」が肥大し「身体的自己」が縮小する。身体的な生きた体験を脳の中の疑似的イメージ操作で代行することがITで行われる。
つまり、身体を失った根無し草の「人格」が「もう一人の私」を名乗りつつ、リアルを求めて漂い始めている

著者は人工知能が不可能な理由をAIが身体を持たないからとしている。
そして、心=意識+無意識とし、意識=知覚意識+自我意識とし、自我意識は3千年ほど前に現れた。これは前に「二分心」で書いた。
そういえば昔、竹内常一先生から、足を踏んでも平然としている子は手ごわいという話を聞いたことがあるな。

紀元前1200年前頃から、戦乱、自然災害、民族移動、人口増大などが起こり社会の安定が崩れ始めたことで、神々の声は次第に有効性を失い、聞こえなくなり、戒律、法令などの文書による支配に変わっていった。
混乱した社会のなかで、人々は何とか秩序を見いだし、生きていこうとする。時間とともに流れていく出来事を空間的に固定化し、その意義を位置づけようと努めるのだ。それが「物語る」という営みに他ならない。「物語る」とは、言葉を比喩によって結びつけ、一連の出来事を抜き出して原因結果で関連づけ、いわば一枚の絵柄を織りあげることだ。ここで初めて「意識」が出現してくる。
「意識」とは、「心という空間的な舞台で物語ること」にほかならない。

この「意識」と「物語る」ことの関連は鋭いと感じる。
すぐに思い浮かぶと思うけど、「言語的自己」は左脳に「身体的自己」は右脳に対応できる。

「情報と心」西垣 通(東京大学大学院 情報学環教授):平成24年度 軽井沢土曜懇話会 第3回

【第4回京都こころ会議シンポジウム】②講演1『AI時代の心のゆくえ』西垣通(東京大学・名誉教授) - YouTube

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