書くという行為によって「理解」が産出される。
私にとって、書くことが考えることであり、思考を産出していることであり、「理解」も産出している。
認知が所与の心による所与の世界の表象ではなく、むしろ世界の存在体が演じる様々な行為の歴史に基づいて世界と心を行為から産出する(enactment)。
「身体化された心」フランシスコ・ヴァレラ著 より
どんな行動や経験もその原因を特定の脳の構造に帰すことができるとすると、
(矢印は相互の依存、特定化を表現する)
この重層化が無限に続く。
そうではなく、自身の経験の具体性と特殊性に立ち返る。
それがエナクティブ・アプローチ。
①オートポイエーシスモデルは自律的に作動するシステムの最小単位を探るもの。
②このモデルをベースに創発が起こるシステムを解明する。
③行為によって機構が産出される。(当たり前に見える)
16年前に買ったヴァレラの「身体化された心」を読んでいるが少しも進まない。
集中して考えることができないのも理由のひとつだけど、自分の中のモデルがはっきりしていないことが大きい。
さらに混乱していることがある。それはオートポイエーシスの最小のモデルが自律的で閉鎖性を持っていること。
ところが、仏教でいう縁起はそもそも開かれたもので、様々なネットワークの中から生起するのが私だから、自律的ではないし、閉鎖的でもない。私は縁起の中からたまたま生起したモノなのだ。
これをどう考えればいいのだろうか。
どうやら物質(身体)としての私と認知するモノとしての私が混乱しているようだ。このことについて西垣さんはこう述べている。
神経システムは自らの歴史のもとづいて、自らが作動し続けられるように変化するだけなのだ。つまり神経システムは、自己に準拠して自己を創り出していく「オートポイエティック・システム」なのである。したがって生命体は、物質的には代謝を行う開放系であっても、認知的には閉鎖系ということになる。
では認知的な私とは何か?
西田幾多郎は次のように述べている。
個人的人格的な性格を帯びている真の自己というのは、宗教的な次元にあって絶対の他者に自分を任せた時に完成される。
あらためて私って何か考えてみると、今までの経験の総体でしかない。
そして、これから何をするのかも定かではない。