「神秘的な合理主義」批判

人は不思議なことに遭遇したときに、神秘主義に走る。
説明できないことを神秘なことや崇高もののはたらきに棚上げするのである。
 
そういう態度を神秘主義という。
さらに、一見合理主義や科学的な態度をとりながら、まだわからないところを神秘主義でごまかすのを「神秘的な合理主義」とよぶ。
 
これは、他人ごとではない。私自身がよく陥ってきたことなのだ。
そして、わからなくなり混乱したときに、何か絶対的なものに依るという欲望に駆られてきた。
自戒を込めて、その(間)違いを少しでも明らかにしたいと願う。
 
昨日まで、意識の合理主義的な面を、特に計画の問題を批判してきた。
それは、「より大きなシステム」=神秘を前提に置いている。
だからといって、全て神秘で説明することは、近代以前に戻ることになる。
 
そうすると近代とは何であったのかということになる。
近代の合理主義は、人間中心主義(ヒューマニズム)を生み出した。
それは、祭り上げられた神から出発するのではなく、人間から出発しようとする試みだった。
でも、それは、自我意識を拡大し、意識に乗らないことを捨て去ったという問題を生んだ。
今、その反動が来ていると感じる。
 
それは、不安・怒り・自信のなさ・自己責任などの拠り所のなさ・・・
などを生み出してきた。
だから、不安を医療や保険に代え、怒りを攻撃に代え、拠り所のなさをナショナリズムに代えてきた。
でも、そこには空しさだけが残っただけだった。
これが近代の行きつく先であった。
 
そういう近代に疑問を持った人たちは、過去を懐かしみ、過去に戻ろうとする。
これは自然な指向だと思うが、それだとせっかく積み上げてきた近代の成果を無にすることにもつながる。
ん、ちょっと広げすぎた。
うまく表現できない。
ずばり、違いは何か?
 
「大きなシステム」を実体のあるかのように扱おうとするところが間違っているのではないか。
  (龍樹の空の思想からいえる)
それをコントロールしようとするところが、間違っているのではないか。
  (そこだけ合理主義になるのは意識の傲慢さだ)
一人一人の経験・体験から出発していないところが間違っているのではないか。
  (上から指向で、全体主義に陥り易さを持っているから)
 
まだあると思うが、ここで力つきた。