井上円了の「真怪」

桜に沢山のミツバチが集まっていた。
日本ミツバチと西洋ミツバチの区別は明確にできなかったが、両方ともいたように思う。
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家に、井上円了の「成功在忍耐」の書の額があったのを思い出して、写真に撮ろうと思ったが、
いくら探しても、見つからなかった。
いったいどこに行ったのだろうか。
 
井上円了真宗の僧侶であり、東洋大学を創設し、日本に哲学を広めようとした人だ。
特に妖怪を退治したことで知られている。
近代化を教育の面から考える上で欠かせない人だ。
 
彼は、妖怪を、偽怪、誤怪、虚怪、仮怪、真怪と分けて、前の4つを物理的、心理的、人為的なものであると、
日本全国から膨大な事例を集めたうえで、それを究明している。
私は、合理的な精神で迷信を打破し、
妖怪や幽霊や心霊現象を白日の下にさらした近代化の権化のような人だと思っていた。
ところが、次の論文を読むと少し違う。
それは、最後の真怪についての説明にある。
 
 
「しかし世界には、人知をもって知るべからざることがあるは疑いなかろうと思う。その知るべからざるとは、未知という意ではない。未知というときは、今日いまだ知るべからざるも、将来においては知るときがあろうという意味に解せらるるも、余がいわゆる知るべからずとは、真の不可思議の意にして、人知にて知ることは不可能なりとの意である。これを証明することは決して困難でない。もし人知の性質の有限にして、宇宙の事物の無限なるを知らば、人知以外の事物ありて存することが分かる。すなわちその体たるや、不可知的不可思議と申すものじゃ。かかる不可思議を名づけて真怪とするときは、世界に真怪の存するは疑うことができぬ。」
 
「ここにおいて、余は人の真怪の有無を問わるるに対し、日月星辰、山川草木ことごとく真怪なりといいて答えておる。かかる大怪に比すれば、狐狸、天狗、幽霊などは妖怪とするに足らぬものである。しかるに世人は、妖怪にあらざるものを指して妖怪とし、真に妖怪なるものを見て妖怪にあらずと思うは、実にその愚を笑わねばならぬ。」
 
前半の妖怪退治がインパクトが強くて、この真怪のことがどこかに消えてしまったことが残念でならない。
私はこの真怪に人の心も加えたいと思う。
彼も「合理的な神秘主義」を抱いていた人であった。