止観について

メモ
 
『「思うCogito」とは、「かき回す」ことであり、「理解するintelligo」とは、「そこから選ぶ」こと』
と言っている。(選択=取捨)
 
親鸞さんは、
『智とはあれやこれや分別し思いはからうことで思唯ということ、慧とはこの思いが定まって動かなくなること』
と言っている。
 
仏教では、ビバシャナ「観」とシャマタ「止」にあたる。
分別知と無分別智と言っても良いかな。
 
『想像をたくましくして、何かと何かを結びつける。その中から合理的に意味のあるものを選び出す。』
と、合理的な神秘主義を語っている。
 
同じことを語っていることが驚き。
 
少し時間ができたので、書き足している。
 
コギトで思い出すのがデカルト
デカルトの言葉は、
「私はかき回している。ゆえに私はここに居る(ある)。」
となる。
何をかき回しているかというと、いろいろな事象(言葉)である。
これはよくわかる。
そういうかき回しているモノは何かと考えると、そこに存在しているモノとしか言いようがない。
 
それから、この四つのことを結びつけるのも、かき回していることだ。
このことは、そもそも同じことなのかというのは単なる直観。
ビバシャナ(観)にあたると思うのは、単なる直観。
それがやがて止まると思うのも直観。
止観のシャマタ(止=三昧)は普通は、禅(深い瞑想)を思い浮かべる。
しかし、それは具体的には何なのか私にはわからない。
だからこそ、親鸞さんの慧の定義がとてもよくわかる。
それは、ベイトソンの思考方法と同じだと感じてしまう。
次は、これを合理的に整理しなくてはならない。
たぶん、いつか自然に定まってくるだろう。