「生物学者と州教育委員の頭のからっぽさについて」

カリフォルニア州教育委員会が反進化論(創造説)の決議をあげたことに対して、
ベイトソンが反論を書いている。
この列島でも、そういう法案が出される可能性(いや!すでに出されている!)があると考えて読んでみた。
 
題は、「生物学者と州教育委員の頭のからっぽさについて」  (代入可能!)
 
まず、ベイトソンはこの法案に皮肉的に賛意を表明している。
その理由は、
1、宇宙に内在するように思われる秩序の原理を指し示すには、どんな言葉を使ったらいいのか?
  という問題提起をしている点は評価できる。
2、この問題に対して、進化論以外のアプローチをも併せて教えよと言っていることは評価できる。
  視点をより広めようというのは創造的であり、私もよく用いる。
  それは、かってニューギニアの神話を彼が用いたことでより深い思想に到達したことを理由とする。
  その神話は、はじめ巨大なワニがバシャバシャしてかき回していたため、泥と水が混然一体となっていた。
  そこへ英雄が現われてそのワニの背に槍を突き立てた。するとワニは撹拌をやめ、
  泥と水は分離した。世界に乾いた大地が現れると、英雄は勝利の足跡を印した。
3、この神話は、世界の分別が全て超越者の手によってなされたと見るか(聖書)、
  秩序とパターンへの可能性がこの世界の内部に偏在していると見るか(ニューギニアの神話)、
  という二つの見方を示している。
  そうした見方の違いによって、人間の魂がどれだけ形を変えて見えるのかということを
  子どもたちに考えさせるのは、彼らの頭を豊かにするために重要なことだ。
4、創造説が授業に取り上げられることで、
  至高の精神を頂点に原生動物まで降り下っていく「存在の大いなる連鎖」についても学ぶことができる。
  そもそも、精神は他のことを説明するための原理であった。
  この連鎖は、逆に、原生動物に始まる上向きの連鎖があることを指示す。
  そして、精神は説明されるべきものになり、この連鎖の中で知ることができる事柄をもとにして
  精神を説明することが、新たな問題となるだろう。
 5、アダムにヘソが無く、エデンの園の木々に年輪がなく、岩陰の地層の重なりが見られないような世界を
  神が創造されたりするのだろうか。
  (聖書至上主義の優れた学者の書いた本を教材として。
    この学者は、神はあたかも過去を持つかのような姿にして世界を創ったと考えた。)
  そういうパラドックスで頭を悩ますことは、決して生徒の害にはならないだろう。
6、また、卵と鶏の問題も、生物学的現象がサイクル性を持っていることの意味を、
  進化やエコロジーに対してどのような理論的意味を持っているのかということを、
  すべての生物学者は十分に考えてきたのか。これは彼らの頭を豊かにするためにも役立つ。
 
ここまでは、創造説を問題提起ととらえて、そこから新しい視点を指し示すことができることを言っている。
また、きちんと説明できない生物学者の方も厳しく批判している。
そして、次に両方(進化論と創造説)を統一する。
 
7、進化思想といっても幅が広い。
  その豊かな人知のスペクトルに対し、誰が正しく誰が間違っているという姿勢で望むのは愚かで醜いことだ。
  それは、「生存」に対する両生類の解答は間違っており、哺乳類の解答は正しいというようなものだから
8、「他の人先に労し、汝らはその実にあずかるなり」ヨハネ
  我々生命体が好むと好まざるとにかかわらず、その中を生きる他はない巨大な進化プロセスの姿を
  この一文は的確にとらえている。
 
彼が、対立的意見を、どうやって批判し、どのように統一しているのか学ぶべき点は多い。