「最後の親鸞」再読

本を読むことは得難い体験の一つだ。

最近は、新しい本を読むことよりも、読んだ本を再読することの方が多くなってきた。
もちろん、読み続けている本もある。

中島さんの話を聞いて、吉本隆明の「最後の親鸞」を再読。
というのは、中島さんの読みと私の記憶は異なっていたからだ。

再読して気がついたのは、吉本は親鸞さんを通じて、自分自身のことを語っているということだ。
当時は、親鸞さんの思想の方に目が行っていて、吉本のことを考えていなかった。

吉本が親鸞さんを通じて、自分自身の「知」の方向を探る。
自分自身の「知」を解体しながら。

読むことと書くことは別の体験だけど,
書くことによって体験を自覚できる。

他力と自力と書いてしまうと、他力と自力に分かれてしまう。
対立している別のものと捉えてしまう。
分別から無分別に至る「知」の在り方という
そもそも表現することが不可能なことを表現しようとしている。

そして、それは吉本と老いと親鸞さんの老いとリンクしながら語られていく。