郡上・9条の会のMLで話題になったことを記しておく。
というのは、とても大事なことだと思うから。
彼が、「原爆投下は神の摂理」だと述べていることについて議論になった。
さらに「転禍為福」と述べていることも。
私自身は、彼の子どもたちへの遺言は心を打つものだと感じる。
そして、
彼が、キリスト者として述べた言葉は、大事なことを含んでいる。
そのことに関して、次のコメントを書いた。
『
(1)永井神話は神話としてとらえるべき
(2)永井氏の思想は時と共に変化している
(3)正しさだけを求めることこそ神話ではないか
(4)永井氏に対する批判の在り方
(5)私たちは愚かで間違いをおかし易い存在である
と、先に結論を書いておきます。
(1)永井神話は原子力平和利用推進派にも、
9条の会にも利用されてきました。
このことについては
にかなり詳しく書いてあります。
私自身は、最後の子どもたちへの遺言に心動かされます。
(2) I さんが書いている言葉は、
昭和20年の初期の段階の言葉であり、
永井氏の思想もその後、変化しています。
戦時中の言葉はある意味当たり前です。
そして、最後の到達点が子どもたちへの
遺言だと思います。
(3)とすると、
永井氏への批判が死者への冒涜にならないようにするには、
その言葉を利用している人に対してなされるべきだと思います。
また、
現在の私たちの知見を持って、
当時の永井氏を批判するためには
彼が、なぜそう考えたのかを知ってからでないとできないと思います。
⇒これについては
(この問題は宗教者として、深く考えなければならないと思う。)
(4)ですから、
永井氏の9条への言葉を前提にして彼を批判するのは、
やはり一つの「永井神話」だと思うのです。
正しい思想があり、正しい人は最初から正しい思想を持っている
というのは神話だと思います。
だって、
私たちは過つのですから。
だから学べるのですから。
(5)永井氏は9条に出会って、初めてあの遺言に到達した
と、私は感じます。
原子力の平和利用については、
私もかって永井氏と同じ考えを持っていました。
でも、
ようやく見えてきたのが、今の私たちではないでしょうか。
私たちは正しさ(真理)を求めているけど、
私たちは永遠に正しさ(真理)に到達することはできない。
でも、私たちにできる唯一のことがある。
それは、そういう存在であることを自覚すること
それが仏道ではないか
そう思うのです。 』