内因と外縁

行文類 両重因縁

まことに知んぬ、徳号の慈父ましまさずは能生の因闕(か)けなん。
光明の悲母ましまさずは所生の縁乖(そむ)きなん。
能所の因縁和合すべしといへども、信心の業識(ごつしき)にあらずは光明土に到ることなし。
真実信の業識、これすなはち内因とす。
光明名の父母、これすなはち外縁とす。
内外の因縁和合して報土の真身を得証す。


凡夫である私たちが、社会に対してどうして批判できるのか
この問いに対して、池田勇諦師が応えている。

それは、内因と外縁の問題である。
なるほどと感じたので記録しておく。

この社会で間違ったことが起こるのは、因と縁による。
縁さえ変えれば間違いは起こらないと思ってしまうのは、因を忘れている。

縁とはしくみなどの条件で、因は私たち自身の中にある。
だから、外縁を正したからといって、間違いが起こらなくなるわけではない。

例えば、差別を例にとると、私自身の中にある差別の心に気がついていく。
そいういいう差別をおかす自分自身の内因に対する目覚め・懺悔・痛みにおいて
外なる縁を問うていく。

そうして、そういう目覚め・懺悔・痛み出てくるのは仏の智慧が当たるから。
だからこそ、自己批判智慧において、他者批判が起こってくる。

それは縁を問うていくことになり、差別を許せない生き方ができるようになってゆくことだと。


いま、 知ることができた。 
慈悲あふれる父とたとえられる名号がなければ往生の因が欠けるであろう。 
慈悲あふれる母とたとえられる光明がなければ往生の縁がないことになるであろう。
しかし、 これらの因縁がそろっても信心がなければ浄土に生れることはできない。 
真実の信心を内因とし、 光明と名号の父母を外縁とする。 
これらの内外の因縁がそろって真実報土のさとりを得るのである。

業識とは私たちの認識作用の主体である。