内因の自己批判と外縁の他者批判

川内原発の発電停止を求める署名をした。

ところが、ネットを見ていたら
川内原発についてこういう論調があった。

原発を停止すると、南九州で電力が足りなくなり、大停電のおそれがあるだろう。
だから、原発を停止するのは被災者たちの状況をさらに追い詰めることになる」と。

これを読んだ時、そうだな大変だな。
電気が無いと透析もできないし、病院は困るだろうし、煮炊きなどの生活も大変だな・・・
と思ってしまった。
それをつれあいに話すと、逆転しているという。

もし、そういう理由で止められないのなら、原発は永遠に止められないことになり、
その発想が福一の大事故を引き起こしたのではないかと。

そう言われ、やっと気がついた。
自分自身の愚かさに。
そして、そういう発想を誰もが持っていることの恐ろしさに。

確かに、被災者たちの困難な状況を考えると、電力は必要である。
でも、それは原発である必要は無い。

この論理の行きつく先は、
原発を停止しても、冷却するための電力が必要だから原発は止めることができない」
というおかしな結論さえ導ける。
そして、どんなことがあっても原発を止めることができないという理屈さえ出てくる。
もしかしたら、その為に停止させないのかもしれない。

原発の事故が起きる確率は少ないかもしれない。
しかし、いったん事故が起きれば、もっと大きな災害を引き起こす。
期待値の問題なのだ。

愚かな私たちの愚かさを川内原発の問題は示している。