「もし私にできるならば」

金がない。心がない。時間がない。場所がない。機会がない。希望がない。
そのような中で、
私が「もし私にできるならば」と自分に語りかける。

① 人が亡くなる。
② 家が壊れる。
③ 避難所の生活。

これは遠いどこかの出来事ではない。
もうすぐ私の周りで起きることである。
もうすでに起きているかもしれない。

もし、私にできるならば・・・
(1) 亡くなった方を敬うこと
②と③は同じことの表われで、具体的には
(2) 子どもたちを大事にすること
(3) 老人の智慧を大切にすること

それは、すでに始まっている。
寺の存在意義は、教義を伝えること(だけ)ではない。
講や縁でつながった共同体(コミュニティ)にあったのだ。
かっての縁側のはたらきを今こそ再生すること。

苦難を被っている人々が身を寄せ、祈る気持ちをとれるようにする場所なのだ。
それは、寺という建物がなくても、再生できる空間なのだ。

縁側は公共空間、中は私的空間。
プライバシーを大事にすることは大事だが、それを強調すると全て私事化された出来事になってしまう。
公ではない、「縁によってつながる」という「公共の空間」がお寺の持っている役目だったのだ。

そんなことを老人会の法要でお伝えした。