「縁起」について

新聞配達の前に雪かきをした。
昨日は、庇の雪だけおろした。
この雪は結構重い。

龍樹の論法(論理)をソクラテスの「メノンのパラドックス」と比べながら考察している。
龍樹の「去る」に「知る」を代入したのだ。
これがなかなか面白くて、いろいろなことを教えてくれた。

「見る者は見ない」「知る者は知らない」
という言葉は、言葉遊びのように思えるが、
例えば、「親」という実体があるのではなく、子があるから親が生じるのだというのが縁起の思想であって、片方だけを取り出して議論するのを否定したのだ。
そう考えると、世界というものは不思議としか言いようがない。
それを「縁」といったのだろう。「縁」としか言いようがない。

子どもの頃に、
学ぶ(生きる・わかる)ということを、暗い空間をロウソクを灯しながら進んでいくイメージを持っていた。
ロウソクの周りだけ明るい。その明りで見えるコトだけをもとに全体を予想するというイメージである。全体が見えた時にパッと明るくなる。

これが今はこんなイメージに変わっている。
乏しいロウソクの光でたたずんでいるところへ、どこからかやってきたものがロウソクの光で照らされて浮かび上がってくる。そして、それはまた去ってゆく。

これが「縁起」のイメージではないかと思っている。
今日は親父の同級生の通夜。
二人とも耳が遠いので、お互いに耳に食いついて話をしていた。

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雪の朧月