「そのまんま」と「おまかせ」について

雪かきを終えた。
思ったより積もらなかった。
除雪のブルも雪をかいていってくださった。
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一昨日から本山の御正忌報恩講をネットライブで見ている。
最後に記念講演まである。
母の主治医の先生が、昨日京都に泊まって今日御参りすると言ってみえた。
私は一度も本山の報恩講にお参りしたことがないが、有難いことである。

以前から気になっていた言葉がある。
「おまかせ」と「そのまんま」
法話で必ず出てくるが、なんだかしっくりと来ない。
なぜ来ないのかというと、現生で考えてしまうからだ。
これらの言葉は全て後生のこと。
仏にならせていただくことは「おまかせ」。
仏にならせていただくためには「そのまんま」でいい。

でも、そのまんまで良いというと、変わらなくてよいと思ってしまう。
おまかせというと何の精進もしなくなる。
そういう心を持っているのが私である。
逆もある。
おまかせなのに一生懸命知識を身に着けようとする。
そのまんまでいいのにこれではいけないとあがく。

自力を離れることをやさしい言葉でいうと「おまかせ」と「そのまんま」
ところが、これがわかりにくくなっている。
それは濁世のせいである。
が、この言葉をどう使うのかというのは、私たちである。
何をおまかせし、なぜそのまんまなのかと。

ただ、「どうすれば信じられるのか?」というと、この言葉が出てこざるを得ない。
「自力無効」も同様である。
自力でやってきた者が、「如意なること」と「不如意なること」の区別はできない。
科学は不如意なることを全て如意に変えようとしている。
私たちに、如意と不如意の区別ができるのだろうか。
実はいろいろな問題追及についても、このことが出てくる。
不如意なのに向こうからやってきたのに如意であったと思ってしまう。

 「阿弥陀様、私に私にお与えください。
 自分に変えられないものを受け入れる落ち着きを
 変えられるものを変えていく勇気を
 そして、その二つの違いを見分けられる智慧を」