「メノンのパラドックス」

トイレに行ったら眠れなくなってこれを書いている。


「メノンのパラドックス」  (知るということについての)
 人は知っているものを探求することはできない(そもそもしない)。
 同様に知らないものを探求することはできない
                                                          (何を探求するか知らないから)。
 なのになぜ人には「知る」ということがあるのか?

ソクラテスの答えは、
 人が知るということは思い出す(想起する)ということ。
 その理由は、魂は不死で何度も生まれ変わってきた。
 だから魂はすでに経験して(学んで)いて、人はそれを思い出すのだ。
 
このパラドックスと同じことを我が龍樹菩薩は議論している。
 すでに知った者が知ることはない。
 未だ知っていないものが知ることはない。
 知りつつある者が(さらに)知ることはない。
そして、
 知る者を離れて知るということはあり得ない。
  知る者が知るということはどうして成り立ちうるのか。
  知る者は知るというはたらきなしには成立しないのだから。

 「知るということ」が「知る者」を離れては存在しない。
 「知る者」は「知る」を離れては存在しない。
しかし、
 「知ること」=「知る者」ではない。
 「知ること」 ≠ 「知る者」でもない。
さらに、
 何も知らないときには、知るというはたらきは決して存在しない。
 もし「知るはたらき」が知るというなら、
    どうしてそんなことが理に合うであろうか。
  「知るはたらき」が知ることはできないし、
  「知るはたらき」でないものが知るわけでもない。

 「知る者」「知られる者」「知るはたらき」というものがあらかじめ存在していて、それらが合体すると「知る者が知られる者を知る」という事態が生じるというようには考えられない。
 なぜなら、知る者がまだ知らない時には、知らない知る人、知られていない知られる者、誰も知らない知るはたらきが存在してしまうから。

何だか混乱してしまうが、
龍樹菩薩が言いたいのは、「言葉の裏に実体を想定するな」という空の思想である。
そうして、言葉は縁起しているからそれぞれを切り離せないという当たり前のこと。
 
孔子の答え
 知るということは、知っていることと知らないことを分けるコト。
 そのことで、「知る」というはたらきが作動する。
 それが「知」ということ。
 
この方たちは、知るということは、私をおいてどこかにあるわけではないし、
知るということで、私が変わるのだということを示している。
さらに、知るということ(自体)は語りえないことも。

昔、「誰も知らない花が美しく咲いている」と考えたことがあった。
それは、著しい矛盾であったことに気がつく。