学んで時にこれを習う=学習

学んで時にこれを習う亦説ばしからずや
 
8/15÷4/5=(8÷ 4)/(15÷5)=2/3
 
この分数のわり算を見ると、あれ?と思いませんか。
そして、確か分数のわり算はひっくり返してかけたはずと思い出し、
確かめてみます。
次に、どうして?と考えます。
これをフェイスブックで紹介したところ、いろいろな反応がありました。
そして、たぶんそうなると考えた上の反応は私の反応であって、人それぞれなのです。
いや、この反応が人それぞれだから面白いのです。
教職課程の学生さんの反応も、上のように興味を持つ人(小数)と、出来ればいい(利用できればいい)から考えるのがめんどうと思っている人(多数)がいます。
私などこの反応自体が面白く、この反応の論文を書きたいと思っているくらいです。
 
さて、ここで言いたいことは、この教材とその反応から見えてくる「学習」についてです。
分数のしくみを考える契機としての教材論は取り上げません。
「学習」という言葉は論語から来ています。
いろいろなところに出てきますが、有名なのが表題の言葉。
その意味は、普通は次のように解釈されます。
「教えを受けたり書物を読んだりして学んだことを、折にふれて繰り返し学習することによって身につけてゆくのはなんと楽しいことではないか。」
どうでしょう。習うことは楽しいのでしょうか。習うというと、私たちは「練習」とイメージします。「ドリルを練習してやり方が身につくことはなんと楽しいことではないか」と孔子は言いたかったのでしょうか。そんなはずがないというのが言いたいことです。
 
ちなみに「学」とは何かを外部から取り入れる行為。「習」とは後天的に身につくもの。「説」は悦。孔子が言いたかったのは、

「何かを学んで、それがあるときハタと理解ができてしっかり身につくことは悦びではないか」
            (安冨歩氏「合理的な神秘主義」より)

私もそう思います。「学習」は大きな喜びであり、人間の行動の本性ではないかと。そして、「学習」のよろこびという人間の本性によって、授業が成り立っていると思うのです。
例えば、この分数の計算によって、わり算とはこういうことだったのかとハタとわかることは、大きな喜びです。

ところがその本性の発現を妨げるものが私たちの周りには多くあります。
私たちにできることは、「学習の喜びを妨げるコト」を見極め、それと逆のことをしてゆくことだと思います。

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久しぶりのまとまった雪
こういう柿を「まぶり柿」と言います。