本来

 「それはそれとして」
 
浄土のはたらきの中に「性功徳成就」というはたらきがある。
 
性(しょう)とは根本という意味である。
それは、浄土がすべての根本である真如法性にかなっているからである。
つまり、浄土は法性の理に順じて起こったものである。
 
成就とは、修行を積んで得た功徳によって性を成就することである。
これは、法蔵菩薩が多くの修行を積み重ねて性を成就されたことをいう。
 
性とは聖種性(しょうしゅしょう)のことである。
法蔵菩薩が因位の時、世自在王仏のもとで無生法忍をさとられた。
そのときの位を聖種性(十地の菩薩)という。
この位において四十八の大いなる願を起こされて、浄土をおたてになったのである。
すなわち、この浄土は、因位の聖種性における願によって得られたのである。
今、果においてその因を説くから、性というのである。
 
性とは、必ず他を自身と同じにするという意味であり、
自身の本質は変わらないという意味である。
それは、海のようなものである。流れ込む水は私たちである。
浄土も同じように不浄な私たちを真如そのものである清浄なさとりの身にする。
そういう清浄にするという性質が浄土にそなわっている。
 
平等がすべてのものの本体の在りかたであり、すべてのものの本体が平等であるから、
法蔵菩薩の起こされた願心も平等である。
願心が平等であるから、さとりの智慧も平等である。
智慧が平等であるから、大慈悲も平等であり、この大慈悲が仏のさとりの正因である。
 
浄土は、法蔵菩薩の大悲によりたてられたのであるから、この大悲を浄土の根本という。
 
真如法性(存在のありのままのすがた。絶対究極のあり方。)
無生法忍(真如法性をさとること)
 
如来は真如より来るもの
本来とは根本から来るもの