悲願

諸仏称揚の願⇒往相廻向の願・・・大行
念仏往生の願⇒往相信心の願・・・大信
必至滅度の願=証大涅槃の願
必至補処の願⇒還相廻向の願
 
このメモについてのメモ。
行文類で、
「しかるにこの行は大悲の願(第17願)より出でたり。
 すなはちこれ諸仏称揚の願と名づく、また諸仏称名の願と名づく、また諸仏咨嗟の願と名づく、
 また往相廻向の願と名づくべし、また選択称名の願と名づくべきなり。」
 
「べきなり」は、原文では「可名」である。
「名づくことができる」ということだが、もっと積極的に「そのように必然的になる」ということととらえたい。
諸仏の称揚や称名、咨嗟は全て往相の廻向、選択の称名であると。
 
同様に信文類
「この心すなはちこれ念仏往生の願(第18願)より出でたり。
 この大願を選択本願と名づく、また本願三心の願と名づく、また至心信楽の願と名づく、
 また往相信心の願と名づくべきなり。」
 
証文類
「これ必至補処の願(第22願)より出でたり。
 また一生補処の願と名づく。
 また、還相廻向の願と名づくべきなり。」
 
化身土文類
「すでにして悲願います。
修諸功徳の願(第19願)と名づく、また臨終現前の願と名づく、また現前導生の願と名づく、また来迎引接の願と名づく、
また至心発願の願と名づくべきなり。」
 
今まで、あまり気にしなかったが、この「名づくべき」をどうとらえたらいいのか。
親鸞さんにとって、この「べき」は当然そうなるという意味であった。
このべきがその前に述べられた願にもかかっているとも読めるが、
行文類の繰り返しから推察するに、やはり区別をするべきではないかと思う。
 
特にはっきりしているのが、19願について。
至心発願とは「真心から浄土に生まれさせたい」と願われたのが法蔵菩薩の本願であると。
そう願えない私たちに、何とか生まれさせたいと願う、生まれたいと願う心を起こさせたいと願う。
それはまさに悲願である。
 
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