「受想行識」 の「三受」について再び

 渋滞に巻き込まれて、イライラしながら考えました。
 
渋滞に巻き込まれたとき、時間が遅れるというのが最もつらいことです。
その時間が決まっていたら特にそうです。
我慢できずに、回り道をしました。
そこでまた渋滞になってしまいました。
最初の道なら、多少の渋滞でもこれほど遅れはしなかっただろう、
また、もっと別の道をたどれば一時間は短縮できたかもしれないと
ぐだぐだと愚痴を言っていると、
この道を選んだからよかったのかもしれないよと言われました。
 
その時、三受の考え方についてふと思いつきました。
渋滞は遅れることに関しては苦痛ですから、それを楽しみ(楽受)には変えられません。
今度は、たかが渋滞だ、渋滞とはそういうものだ、苦しみでも楽しみでも無いととらえたら、捨受になります。
でも、私がとった行動は、その渋滞から何とか逃れようという行動でした。
その結果、ますます渋滞に陥ってしまったのです。
そして、自分自身の行動をあれやこれやと愚痴り出したのです。
 
大事なことは、自分の選んだ行動に責任を持ち、苦をそのまま受け取ることではないか。
 
それは、逆を考えたらよく分かります。
楽受だったら満足し愚痴はでません。
でも、そこにはその楽が去ってしまうのではないかという不安が付きまといます。
だから、楽受も、捨受として受け止めようとすると、そこには空しさが出てきます。
こう連れ合いに話したら、じゃあ私たちはどうすればいいのか?と問います。
 
その時に、どうすればいいのかではなく、私たちとはそういうものなのだと考える。
 
楽は喜びを生じます。苦は悲しみを生じます。
喜びを喜びとして、悲しみを悲しみとして受け止めていくこと。
それは、極めて人間らしいことではないか。
ただ、そこから迷うからいけないのではないか。
 
でも、そうやって迷うのが私たちです。
悲しみや喜びや不安や空しさを感じるのが私たちです。
それがわかったのは、三受のとらえ方を知っていたからです。
 
これは、たかが渋滞のことだから言えるとも取れますが、
受け止めるということについては、身体をはって受け止めるしかないのだと。