証明を試みることは体験である。
証明できたことは大きな体験である。
なぜなら、
それまでの試行錯誤をすべて相対化し、
それらが持っていた意味を明らかにしてくれるから。
体験は真理からの方便である。
そもそもなぜ証明に取り組んだのだろうか。
これも不思議だ。
取り組んでいる時に、様々な現象が現れ消えていく。
その中から本当に大切なものを選び取ることはどうやったらできるのだろうか?
私たちの力では無理ではないかと思う。
あれから一日、何度も気になって証明を見ている。
なぜ見るのかというと、試行錯誤を振り返りたいからだ。
なぜそれにこだわったのか、
どうしてこのことが結びついたのか、
そういったことが楽しいのだ。
この中に、
「問い」についての考察が書いてある。
問いは方向を指し示す。
でも、その問いを発するのは私であり、私の体験なのだ。
その体験を一番表している歌。
ちちははの愛深かりし田舎家を朝より念仏のこゑに満たして
喜びに悲しみに念仏したまへば幼き耳もそをききれけぬ
わが父母はこの世に生まれ来りしは真宗にあはんためと言わせし
中川幹子
この歌を体験すると、涙が浮かんでくる。
