これがミツマタの花あることを知った。
子どもの頃、大きな蒸し器で、蒸して皮を剥がしていたのはミツマタだったのか、楮だったのか。
そういう思い出は、私の脳に記憶されているのだろう。
ところが、その記憶は、はっきりとしたものではない。
もっとも記憶がはっきりしていたら大変である。
はっきりしていないから、記憶そのものではなく、記憶の中にあるその出来事を懐かしむことができる。
つまり、記憶という脳の中のモノではなく、実際に脳の外部にあった出来事と考えている。
でも、それは本当にあった出来事なのであろうかというと、自信がなくなる。
脳の中の記憶は、その出来事そのものではないからだ。
とすると、面白いことにその出来事が、「脳の記憶」ではなくなる。
もっともこれは『「脳の記録」ではなくなる』と言い換えた方が良いのかもしれないが。
「脳の記憶」≠「思い出」であることは当然なのである。
だって、そう思い出して懐かしんでいるモノは脳ではないからだ。
その時、脳はドーパミンを分泌しているのかもしれないが、そんなことは、私には関係ない。
そして、それを思い出しているのは誰なのか?
思い出し、その体験を懐かしく感じているのは誰なのか?
それは、「この脳」なのか?
当然、脳の記憶と同様に違うと言わざるをえない。
脳は単なる「しくみ」でしかない。
車のようなものだ。
車というしくみは、動きだし、汚れ、タイヤに空気を入れ、いろいろな場所へ運んでくれるという機能を持っている。
車のしくみと車の機能を一体と考えてしまう私は、しくみなのか機能なのか?
「私」は、私の脳の機能なのだろうか?
「私」は、「この脳の機能」かと考えている機能なのだろうか?
すでにそう考えている時点で、「私の脳」=「私」ではない。
最も「私の脳」ということは、私の部分だから「私の脳」<「私」となってしまうが、
これは「私の」という言葉のはたらきであるからややこしくなってくる。
「これらは、そういう言葉に対応するモノが実体としてあると思ってしまう間違いである」
と言われたのが、龍樹菩薩である。
考えてみれば、「私」と思っているものも、「国家」と思っているものと同じようなものだ。
国家を見た人はいない。
国家は「想像の共同体」である。
・・・
こうやって否定の形でしか表せないところが「私」というモノの本質なのかもしれない。
そして、実体のあるかのように苦しんでいる人たちの一人がこの私である。