私の「縁起の思想」は常に変化している。
最初は原因に対する条件として縁を理解した。
因縁果である。
さらに体用を含むものとして理解した。
次に環境として理解した。
環境そのものがはたらいている世界も縁となった。
そして、歴史も死者も縁の中に入ってきた。
仏教徒であるとは、突き詰めると次の3つのことを原則とするという。
(2)因果の道理で思考すること
(3)縁起を信じること
(1)は真理は一つであるということも含む。
なぜなら、真理が一つでなかったら真理ではなくなるから。
そういう論理はもちろん前提にある。
(2)は善因善果、悪因悪果のことであるが、
それもその通りだと思うようになってきた。
「さるべき業縁のもよおさば、いかなるふるまいをもすべし」
という我が身の有様もだんだんとわかってきた。
そうなると不思議なのは、縁起してきたこの私という存在である。
縁によって起ってきた私という存在のことである。
たまたまの縁によって立ち上がってきた私という形はいったい何であろうか。
そのことを不思議には思うが決して不安ではない。