ひとえに親鸞一人がためなりけり

浄土に照らされてこそ、この我國が見えてくる。
浄土は願土である。
我國が終わる時、浄土へ往くことができる。

龍樹菩薩の智度言から浄土へとようやく至ることができた。

もう一つ、問いがあった。
それは、浄土と我國の意味とは何か。
それは浄土と現生の意味である。

浄土を現生と対比させてしまう煩悩から生まれたものだ
と気がつけば当たり前のことだった。
私はあまりにも現生にこだわりすぎていたのだ。

  弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとえに親鸞一人がためなりけり。
  されば、そくばくの業をもちける身にてありけるを、
  たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。

この宇宙(浄土と我國)は、私一人を救うためにある。
この世界(我國)の全ては、本願(浄土)によって私一人にもたらされた導きだ。
ありのままのこの世界(我國)が、弥陀佛の本願(浄土)そのものであった。

かといって、我國は誠にお粗末な世界である。
お粗末な世界であると気づかせて頂いたことは何と有難いことであろうか。