「目覚め体験」=「凡夫の自覚」+「私一人のための世界」

信心とはこうあるべきものであるという、共通で、上から目線で、天下るものであるという姿勢はとらない。
信心はあくまで個人的なもので、しかし、それは仏との関係において成立するから与えられた信心となる。
 
これを前提として、私の「目覚めの体験」を表現してみる。
この体験のためには、二つの自覚が必要だった。
 
一つは、凡夫の自覚
もう一つは、世界は私一人のために存在するという自覚
 
凡夫の自覚は愚であり、罪悪深重である自己の自覚である。
そして、そのことを知らしめた仏の光の存在を認知する。
 
世界は私一人のために存在するという自覚は、「落在する自己」の自覚である。
本来、空・無我であるこの私が、ここにこうして存在しているということは、
誰にも変わりえない体験をして、やがて消えていく存在として、そう思うしかないという自覚である。
 
自己とは他なし。
絶対無限の妙用に乗托して任運に法爾に此の現前の境遇に落在せるもの、即ち是なり。
 
私という経験は、私しかなしえない。
私に代わるものはいない。
無我でり、空であるものが、この我を形づくり、名を名乗り、有らしめているのはなぜか。
 
この私をつくり上げたものは、この世界の縁起であり、如来である。
そして、そこに如来の願いがある。
 
『静寂であるはずの真如が、その内的な過剰から動き出してしまった時、
その動きの求心点として宇宙に生まれてしまったのが、「この私」である。
静かなる宇宙はその豊饒さのゆえに避けがたく沸き立ち、無数の渦巻くその渦の一つが
個々の存在物という仮の姿であって、「私」はその渦の一つである。』
 
私は自分自身の様々な体験を、この如来からの事々物々として受け取ることができる。
そして、如来の願いが率直に耳に入ってくる。
 
弥陀の五劫思惟の願をよくよく案ずれば、ひとへに親鸞一人がためなりけり。
されば、それほどの業をもちける身にてありけるを、たすけんとおぼしめしたちける本願のかたじけなさよ。