「不可称不可説」と「語りえぬもの」

久しぶりに仏教について語り合った。
 
義弟と二日にわたっての対話の中で、気がついたことがある。
信心や他力について語ろうとすると、どこか外れてしまうということだ。
 
語ったとたん、どこか違うなと感じるのだ。
たまわりたる信心のことを語った瞬間、違うものになっていると。
 
そのエピソードは語れるけれど、それを解釈すると、違ったものになっている。
その解釈は表現しようとしたものから離れてしまう。
もちろん、解釈とは一人一人のもので、その人の体験から生み出されてものだ。
だから、この問題は一人一人の感じ方はそもそも違っているということかもしれない。
 
「方便と般若」を応用と法則に譬えたことがあるけれど、そう規定してしまうと外れているように感じる。
つい規定してしまう心があるのがいけないのか。
 
「念仏を限りない学習運動」と言ってしまうと、少し違うのでは・・・と感じてしまう。
凡夫の自覚の中に、どこか誇る気持ちを感じてしまう・・・
 
言葉にした途端、違うと感じるのはなぜか?
暮れから読んでいる「ウィトゲンシュタイン入門」
なぜ読もうと思ったのかというと、ウィトゲンシュタインの「語りえぬもの」と「独我論」が
不可称不可説不可思議」と「無我」に通じると感じたからだ
 
語りえないものを語ろうとしているのではない
真如の姿をと言ったとたんに矛盾に気がつく
言葉の限界は私の限界
 
『無上仏と申すは、かたちもなくまします。
かたちもましまさぬゆゑに、自然とは申すなり。
かたちましますとしめすときは、無上涅槃とは申さず。
かたちもましまさぬやうをしらせんとて、はじめに弥陀仏とぞききならひて候ふ。
弥陀仏は自然のやうをしらせんれうなり。

この道理をこころえつるのちには、この自然のことは、つねにさたすべきにはあらざるなり。
つねに自然をさたせば、義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。
これは仏智の不思議にてあるなり
。』