義なきを義とすといふことは、なほ義のあるべし。 (自然法爾章)
義といふことは、はからふことばなり。
行者のはからひは自力なれば義といふなり。
「即横超」は、「即」はすなはちといふ、
信をうる人はときをへず日をへだてずして正定聚の位に定まるを即といふなり、
「横」はよこさまといふ、如来の願力なり、他力を申すなり、「超」はこえてといふ、
生死の大海をやすくよこさまに超えて無上大涅槃のさとりをひらくなり。
信心を浄土宗の正意としるべきなり。
このこころをえつれば、
「他力には義のなきをもつて義とす」と、本師聖人(源空)の仰せごとなり。
「義」といふは行者のおのおののはからふこころなり。
このゆゑにおのおののはからふこころをもたるほどをば自力といふなり。
よくよくこの自力のやうをこころうべしとなり。 (尊号真像銘文)
実に不思議だと思う
だから「沙汰すべからず」なのにやっぱり思ってしまう
それが私の義(はからい)なのだろう
でもそう思ってしまう
対象化してしまう心があるから、
「義なきを義とす」を義としてしまってはいけない
でもそう思うことがすでに・・・
循環論法におちいってしまう
自力にはこのように限界がある
自力では表現できないことがある
そう言ったとたんに真実はどこかに行ってしまう
そういうレベルのコトガラがある