一つの神話 目的意識と計画の危うさ

今日仕事をしていて、手を洗うとき、気がついたことがある。
何でもないことだが、新鮮だと感じたので記録しておく。
 
それは、汚れた手を洗おうとして、手を洗わなくても、汚れたものを洗えば汚れは一緒に落ちるということだった。
 
昔、雑巾は、自分を汚すが拭かれたモノはきれいになるのはなぜなのか考えたことがある。
これは自己犠牲的だが、汚れた手は、洗われたモノをもきれいにしながら、
自分自身もきれいになるので共同的だ。
他者への取り組み・教育・介護・援助などはこういう面を持っている。
対称的ではないが、そこには手を洗う時のような相補性が存在する。
 
 
目的意識のあやうさ
あることをするときに、目的を明確に設定して、取り組むことが正しいとされる。
そして、その目的が達成されるかどうかが問題となる。
ところがその目的意識が、視野狭窄に陥る危険性があることをベイトソンは警告する。
彼が喩えた神話が面白いので記録しておく。
 
『昔楽園があった。そこはたぶん亜熱帯だったのだろう。
何百種類もの動植物が、肥沃な腐植土の上で大いなる豊饒と均衡を愉しんでいた。
そこに、他の動物より知恵のある二匹の類人猿がいた。
一本の木に実がなっていた。類人猿には手の届かない高いところにそれはあった。
そこで彼らは考えた。それが誤りだった。彼らは目的の思考に走ったのだ。
やがて、アダムという名のオスが、空箱を持ってきて木の下に置き、その上に乗った。
しかし、実にはまだ届かない。そこでもう一つ箱を持ってきて、上に積み重ねた。
そこに上るとリンゴの実が取れた。アダムとイブは歓喜した。ものごとはこうすればいいのだ。
計画を立てる。AをやりBをやってCをやる。するとDが手に入る。
彼らは計画的な行動にいそしむようになった。
そして、自分たちも楽園もシステミックな全体なのだという思いは、楽園を追われていった。
神を追放した彼らは、目的の道を邁進した。
やがて表土が消え去り、植物の雑草化と動物の害獣化がはじまった。
楽園の経営は辛くなり、その日の糧を汗して得なくてはならなくなった。
アダムは言った。「神の復讐だ。あのリンゴを食べたのがいけなかったのだ。」
楽園から神を追放してからというもの、アダムとイブの関係にも質の変化が起こった。
イブには夫と交わり子を産むことがいまわしく思えた。
目的の一本道を生きる彼女のもとに、楽園が楽園であったときの深く大きな生命体験が戻ってくるのは不快なことだった。イブは愛の行為も出産も嫌うようになった。
分娩は苦痛になり、これもまた神の復讐なのだと彼女は思った。
「汝は苦しんで子を産むであろう。汝は夫を慕い、彼は汝を治めるであろう。」そんな声さえ聞こえてくるのだった。
さて、アダムは目的の道を邁進し、とうとう「自由企業システム」というものを作りだした。
イブは女であったために、ながいことこれには参加を許されず、ブリッジ・クラブに入ってそこを憎しみのはけ口にした。
次の世代で起きたトラブルも、やはり愛に関わるものだった。発明家で改良家のカインに神が告げた。
「彼(アベル)は汝を慕い、汝は彼を治めるであろう。」そこでカインはアベルを殺した。』