総代の方たちと話していたら面白い話題が出た。
「今の子んたぁは勉強はできるがかいしょが無い」
かいしょは漢字で書くと甲斐性だと思うけど、この地域独特の言葉でもある。
例えば、鍋の蓋をそのまま取ってそのまま置くのはかいしょが無い。
取った時に裏返しにすれば湯がたれないことを考えなくては。
先の言葉で言うと「今の子はテストの点数は高いけど、応用力・先を見る力・段取り・組織力・プリコラージュ・・・が足りない」ということになる。
テストでは計れない人間的なチカラが何かある。
「では、かいしょをつけるにはどうしたら良いのか?」と聞いてみた。
これには即答は出ず、みんなでそれぞれの経験から意見を出し合った。
そもそも「甲斐」とは「やりがい」であり「~したかい」であり「話甲斐」があるのであって、その行為のねうちや応答・評価も含まれる概念だから、簡単に身につけることはできないのではないか。
そもそも自分自身にかいしょがあるとは思えないという意見も出た。
そうすると、モノコトに対する評価能力を高めることが大事だ。
それはその人自身の目的・目標に対する経験から来ていると思われる。
こうなりたいという目標である。
それは、あこがれの先達がいて、こういうときにこう言われたという経験であり、その言われたことを受け入れ評価する能力である。
いきがいはその人自身の行為への評価能力に依っている。
さらに行なった行為への承認欲求も私たちが根元的に持っている。
かいしょ論はいろいろ考えさせられる。
小学校の6年生の時ストーブ当番というのがあった。
朝早く登校して職員室へマッチを取りに行く。
低学年の教室のストーブに火をつけるのだ。
先生は誰も付いていなかった。
新聞紙に火をつけてスギ葉を入れ、薪を載せていく。
低学年の子たちが登校するまでに教室を温めるのは高学年の誇りでもあった。
「今の子はマッチを擦るかいしょもない」
という話になった。スキルとかいしょはつながっている。
こんな良いストーブではなかったけど、懐かしいダルマストーブ。
煙突も子どもたちが取り付けたし、薪も運んだし、スギ葉も集めた。