ベイトソン「精神の生態学」

旅行していて更新ができなかった。
体調を崩してしまったが、とても貴重な体験だった。
 
体験と経験はどう違うのだろうか。
「体験を経験にする」といえば通じるが、では経験とは何かを定義するとなると難しい。
 
この旅行でグレゴリー・ベイトソンの「精神の生態学」と初めて出会った。
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ついにベイトソンにたどり着いた。
私はこの旅行でベイトソンを体験したのだ。
 
彼は、自分が研究の対象とするものを、自分の外には決して置かない。
そして、そこで感じる自分自身の感覚の経験を深めて、
その意味を探り出す。
彼は自分自身も含めたこの世界の不思議さを、
少しでも明らかにできないかと苦闘している。
 
彼は、生きることの目的は「生きるゲーム」のルールを発見すること
にあると言っている。
いつでも変わっていて、決して捉えることのできないルールを。
 
この「生きるゲーム」とは、
フォン・ノイマン型のゲームではない。
生きていることが指し示しているコミュニケーションのゲームのことだ。
彼もそれは本当のところどういうものだかわからないと言っている。
 
この本来わからない「生きるゲーム」のルールを発見すること。
そして、ルールを決めるルールはどうなっているのか。
 
「生きるゲーム」と思っただけで、そこには豊かな世界が広がっているような気がする。
しかし、私たちはまだ何もわかってはいない。
旅行で表面だけを見ているように。