この中の、善知識「貴公女ゴーパー」の話の中の「太子と町娘の恋」の話は
まさに、女犯偈とおなじテーマである。
愛する人と生きることは、互いを善知識として生きるのだということを示している。
また様々な回りの人々を善知識として受け止めていく。
それが生きていくということであり、道を往くということである。
旅の最後に登場する普賢菩薩(普く勝れた賢者)とは何者なのか?
還相廻向の願である22願に、「普賢の徳を修習せん」と出てくる。
まさに、この娑婆で還相の菩薩として現われてくる方たちが、
私たちに、普賢の徳(=あらゆる慈悲行=53人の善知識(=還相の菩薩)の慈悲の教え)を
実践することができるようにしてくださるのである。
「しかれば大悲の願船に乗じて光明の広海に浮かびぬれば、
至徳の風静かに、衆禍の波転ず。
すなわち無明の闇を破し、
すみやかに無量光明土に至りて大般涅槃を証す、普賢の徳に遵うなり」
こうやって見ると、
善財童子の旅は、私たちの一生の旅なのではないだろうか。
そして、私たちは自力ではできないけれど、
念仏を称えていると自然と普賢菩薩のような行動を行うことができるようになると。