安心と不安

昔から見通しなく生きていくというのが身についた習性だったが、
さらに加速したように感じる。
あちこちに手を出して行き詰まり、二進も三進も行かなくなるという図式。
 
問題は次から次へと出てくる。
まるで数学の問題のように。
それを解決できずに問題だけ増えていく。
安心などという世界とはまるで縁がない。
 
もちろん今の世界が安心とはほど遠い世界だから、
私の狭い世界がそうなっていても不思議ではない。
 
不安というのはどこから出てくるのだろうか。
どうなるかわからないと言えば、すべてがそうである。
だから悪い方へ考えたらきりがないから考えないようにしている。
考えないように逃げているだけなのだが、
考えて対策を打ったとしてもそれだけのことである。
やはり不安は残る。
 
その不安をここに出してみよ、と達磨さんが言ったが
全てが不安だとすると、そう思うことの方を疑う考え方も不安を増加させるだけだ。
逆に「安心の世界」がどこにあるのか探してみるとはっきりする。
 
世界に安心はどこにもない。
それを求めていけばかえって不安になるだけだ。
でも、安心を求めて生きていくことは悪いことではない。
それがほとんどの人の願いだろう。
浄土はそこにこそ位置づくと思う。