確定申告に行ったら、空いていてすぐにやってもらえた。昨日は多かったらしい。
方丈記を久しぶりに読んでみる。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
(中略)
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、何によりてか目をよろこばしむる。
確かに私がどこからきてどこへ行くのかわからない。
でも、私たちの生を水の泡(うたかた)に譬えている。
とすると、ブレディにならって、「私たちは水の泡だけどその水が本体だよ」
と言うこともできる。「自分を水の泡だと思っているだけだよ」と。
この譬えはもっと広がる。水はいろいろなところから集まってくる。
どこから来たのかわからないけど、今の私となっている。
とすると、泡はその時の思いつきやイベントかもしれない。
様々な流れが集まって大きな川の流れとなる。
よどんでしまったり、大雨で押し流されたり、
そして、川はやがて海にそそぐ。
私たちは大きな海となるのだ。
静かに流れているのが川の本体ではないと同様に、
苦悩もまた私たちの生活の一部である。
いや、苦悩こそが私たちの生活の全体なのだ。
そして、それは私たちを真実(本来のあり方)へと導く。
ところが凡夫である私たちはそういう思考はなかなか難しい。
だから、やっぱり不安から遁れることはできない。
そして、何とか不安を消そうとする。
でも、不安を消すということは、苦悩を消すことだから、それは人生を消すと同じ事。
そうではなく不安と共に生きていくこと。
苦悩と共に生きていくこと。
安心(あんじん)とは不安をなくすことではなく、不安があっても仏は私を支えているということ。苦しみや苦悩は不幸なことや無意味なものではなく、私を本来の道理に立たせるきっかけになるということ。